※本エッセイは2024年10月3日にAPRIN関係者用のメルマガで配信された記事を当時の内容で掲載しています。
どういう経緯で私が「公正研究」に関わるようになったかを振り返ると、偶然と必然の両要素が絡み合っていることがよく分かる。
歴史に関心のある人ならご存知と思われる「国友鉄砲」の滋賀県長浜市国友町で私は生まれ育った。江戸から明治を生きた祖父の少年期までは、実家はこの仕事をしていたと思われるが、明治中期生まれの父は日本画家となった。その影響だろうが、私は高校の初めまで、絵のレッスンを受けた。しかし将来の進路を決める段階で、美術系から工学系に大きく舵を切った。専攻した工業化学系修士課程を終え、繊維分野の大手企業に入り中央研究所に配属された。合成繊維の改良研究に徐々に集中しつつあるとき、上司から「これから繊維産業は厳しい局面に向かう。繊維やフィルムとは直接関係しない新領域の探索をしてほしい」と指示された。当時考えられる限りの調査・探索を経て、「高分子と医学の接点領域」に対象を絞っていった。しばらくして鎌倉に建てられていた基礎研究所の中に小さな「医療材」グループが編成され、いくつかの「医療材」の研究が始まった。
この分野を選択したことは、これまでに想像もしなかった大きな転換を私にもたらした。
今から参入しようとしても所詮後発でしかない医療医学の分野で何か新しいきっかけとなる技術基盤が見いだせないかと、会社は一気にハーバード大医学部と共同研究という形で提携することを決断した。そして選別された二つのテーマのうちの一つの方の素材を発明した私が代表として、1974年ボストンに単身派遣された。テーマは二つながら、基礎的な実験から臨床評価まで、4年半に及んだ。この滞在は、当時まだ医療材開発の手法や規制が未整備であった国内環境に先んじている米国でのシステムなどを習得するのに非常に有意義であった。しかもこの時期にNIHの大型臨床研究が同じ場所で進行しており、プロトコール作成やデータ解析など、その当時の最先端のシステムを目の当たりにすることが出来た。
この米国生活は、知己を得るという点でも貴重な機会となった。その一人が本会専務理事の市川先生であった。大学の医局で背中合わせになるという縁ながら、仕事の中身はお互いに不干渉であった。私が先に帰国した。かなり後になって帰国された先生から、倫理教育に対する関心と計画について話を聞いた。米国での経験を多少共有しているとはいえ、私の方は倫理教育にすぐには関心を持たなかった。しかし先生の奮闘ぶりを聞くにつけ、次第に協力できることはないかと思うようになり、2015年から2年余り、先生が導入され設立された日米医学教育コンソーシアム(CITI JAPAN PROGRAM)の副理事長を引き受け、この組織がAPRINに移行する場に立ち会った。そしてAPRINの初期の教材作成に参加し、評議員になった。2019年3月からは監事を仰せつかっている。
1978年ボストンから帰国した私は迷うことなく医療分野の研究開発に集中した。担当するテーマも人工臓器からインターベンション器具、検査診断薬・システムなどもカバーするようになり、担う職務も、研究開発から、生産も含めての事業統括、海外展開、さらには業界活動などにも広がった。30年近くの間に、数件の臨床治験も実施した。PMDAの事前相談制度などのない環境下で、救急医療領域の新製品治験を行なおうとして対照処方をどう設定するかについて、プロトコール構築に苦慮したことはとくに記憶に残っている。
こうしたキャリアを積む過程で、広義の「公正研究」に関する問題や課題に遭遇することは少なくなかった。また当然のことながら、事業を担うとなると、毎月毎月、というより四六時中、成果の数字のプレッシャーがまとわりついた。
しかし幸いなことに、長期に渡った在任中、メンバーの意図的なデータ不正や集団・組織としての不正行為を発生させるようなことは防ぐことができた。
在任中最も執拗に苦しめられたのは、米国で発生した豊胸材の不具合に端を発した製造物責任(PL)問題であった。すぐにわが国にも伝えられ、医療の非専業企業で「過剰拒否反応」を起こした。わが社もしかり。米国とわが国で製造承認を取得し上市していたにもかかわらずインプラント製品ということだけで事業撤退した事例もあった。今のように、こうした新たな規制に関し公の場で議論することが出来ず、本当に歯がゆい思いがした。米国ではPL法を制定後にBAA法を策定し、軌道修正を図っている。このような柔軟性については、わが国が改善すべき点は多々あると思われる。APRINのような存在はこうした課題解決に大いに寄与し得ると期待している。
次世代に現業を渡してから、国立研究開発法人などの仕事を委託された。NEDOや科研費の審査から始まり、JSTの推進プログラムオフィサーを7年間務めた。非常に多くの案件の審査や評価を受け持って、視野を広める機会にもなった。これらの仕事では「公正研究」の経験も役立った。
振り返ればこの半世紀、企業の内部だけでなく広く外部も含めて「新しい医療技術・システムの創出」を目指して苦闘してきた。医工学という視点から見れば、まず1970年代の人工臓器の萌芽、1990年代の遺伝子医療への挑戦、2000年代の再生医療への期待などの大きな波が現れた。そこから始まった幾多の試みのうち社会実装に至ったものは限られている。あのボストンで基礎研究を始めたコンセプトは、幸いなことに半世紀後の今でも、世界の多くの国の臨床現場で働いている製品のなかに生きている。基盤構築に注力しておく意義は大きいと思っている。
最近突出して目立つ新しい技術の波は、ゲノム編集と生成AIであろう。前者はこの先、生命倫理の究極点の判断や決断を問いかけてくるだろう。後者の方はその普及のスピードが半端ではない。少々の規制を作るくらいでは御しきれない問題が生まれそうである。哲学的な考察も含めた多面的な検討が望まれるが、APRINのような組織の存在の意義も問われると考える。
こうした新しい技術も有効に生かして社会実装のできる新製品・システムがわが国からも生まれるよう、思考の基盤となる倫理観も見直しながら、一方では「もの」を作り出していく人たちを前向きに支援していくAPRINであり続けてほしいと願っている。
(APRIN関係者向けメルマガ配信日:2024年10月3日)
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